院長紹介

Director
院長
飯塚 正彦Masahiko Iizuka
所属学会 等
  • 臨床歯周病学会
  • 包括歯科研究協会
  • 日本歯科医師会
  • 群馬県歯科医師会
  • 渋川北群馬歯科医師会
  • 摂食嚥下研究会世話人会
  • 在宅ケアネット幹部会
  • 渋川市健康づくり推進協議会

いいづか歯科医院は2007年(平成19年)1月に開業しました。当時私は29歳でした。今思えばまだまだ未熟な私を支えていただいた患者さん、スタッフ、周りの方々に心から感謝しております。私の仕事で患者さんに喜んでもらえると素直にうれしいですし、当院のスタッフの対応をお褒めいただくと本当にうれしく思います。私の天職は歯科医師だと思っています。そんな私の生い立ちを書きました。下記の「もっと知る」というボタンをクリックするとご覧頂ける形になります。長くなりますのでお手すきの際にご笑読いただけたら幸いです。

小学生の頃

昔はどの学校にも1人は居ました、真冬でも半そで半ズボンの小学生が。それが私です。担任の先生からは「お前を見てるとこっちが寒くなるから長ズボン履いて来い!」だの言われましたが、根っからの負けず嫌いが祟ったのか逆に闘志に火が点き、お陰で6年間半そで半ズボンを続けられた・・・と言うか続けてしまったのだと思います。

しかし、引っ込み思案な性格でもあり、人前に出ることに極度の緊張を覚えてしまう少年でした。国語の授業の発表で読み方を間違えた時は泣き出してしまうほど。家ではほとんど毎日、弟とテレビゲームばかり。

そんな小学生時代でしたが、学年の修了式前に作る文集の「将来の夢」には「歯医者さんになる」と書いていました。それも小学1年の時から。クラスメイトはウルトラマンになりたい、とか、カレーライスになりたい、とか好きなものをそのまま書くような年ごろなのにです。これはもはや洗脳と言わずしてなんと言いましょう。そうです、私は親に洗脳され歯科医師になりました。

私は小学5年生まで、おねしょをしていました。なんででしょうかね~。今思えば色んなことに気を遣い、人の顔色をうかがい、常に緊張している精神状態だった気がします。好きな科目は算数と図工。写生大会では金賞を貰いました。

あと、小学生の思い出は、夏休みの宿題がいつも終わらなくて、全然やらないから夏休み最終日に焦って取り掛かるけれど、時すでに遅し。いつも期限を過ぎてから提出し、怒られていました。ちなみに誕生日は、夏休み最終日の次の日。だから、みんな宿題やら新学期やらでそれどころではなく、いつも忘れられていたイメージがあります。

とにかく家では全然勉強しなかったです。逆に授業はすごい集中して聞いていました。でも嫌いな先生の授業は全然頭に入らなくてダメでした。そんなもんですよね。でもそれによって教科自体に苦手意識がついちゃうから、先生って責任重大ですよね。私は普段先生と呼ばれてはいますが、教職の先生ではないです。けれど、同じ先生と呼ばれる立場として、歯科医院に来てくれたお子さんに歯医者の人嫌いって思われたら、その子は一生歯医者に苦手意識を持っちゃうと思います。そう考えたら、お子さんのためにも、ちゃんとしなきゃって背筋が伸びる思いです。

中学生の頃

そんな、洗脳を疑いもなく受け入れてしまう素直な少年は中学生になり、少しずつ社交性が出てきます。人前で面白いことを言うことが楽しいと感じるようになり、今まで非常に閉鎖的だった人間関係がほんの少し広がっていきます。その頃好きだったのはテレビ。それもCM。当時もし、CMイントロ早押しクイズ選手権があったら日本一になる自信がありました。

部活はバレーボール部に入り、裏レフトで一応レギュラーでしたが、県大会には一度も行くことが出来ませんでした。50メートル走も7.0秒。早くもなく遅くもなく。スポーツ全般そんな感じ。だけど、なぜか一度だけ校内体育大会の走り幅跳びで優勝しました。他の強敵たちがメンタルに負けて失敗を連発。私はいつも通り普通にやっただけなのに。

中一の時、初めてCDを買いました。MCハマーのアルバムです。当時すごく人気があってCDショップに行くと店頭にたくさん並べられていたからという理由で。それまでMCハマーを知らなかったし、洋楽が好きだった訳でも無かったので、意味わかんないんですけど。

あと、中三の時に「素顔のままで」っていうドラマが流行って夢中で見てましたね~。主題歌は米米クラブ。この頃から恋愛に興味も出てきて、お年ごろって感じになりました。

高校生の頃

無事中学を卒業し、晴れて高校生となった飯塚少年は、高校に入って友達が一気に増えました。もう友達と遊ぶことが楽し過ぎて、かな~り勉強が疎かになってしまいました。学校を理由なく早退し、友達と自転車でいろんなところに行ったり、スケボーチームを作って工場跡地でたむろしたり。カラオケにはよく行きました。

新前橋のカラオケバンバン。今はもう無いですけど。当時はJudy And MaryとミスチルとEAST END×YURIっていうアーティストが好きでした。夏は川に泳ぎに行ってよく遊んだな。同級生が川に流され死んでしまったことは今でも忘れられません。楽しい!!と思う心の震えや、悲しい、どうすればいいんだろうという心臓を掴まれるような心の痛みを経験し、感情の振れ幅が大きくなった気がします。

部活はバトミントン同好会に入りました。当時まだ「部」では無かったため放課後の体育館はメジャーな部が使うため使用できず、もっぱら朝練でした。これでも一年生の時に、学校代表として県の合同練習会に参加し、エースとして期待されたこともありました。しかし、部員の朝練の出席率が悪いということで、月に四回朝練に遅刻欠席をしたら除名という決まりが出来、その五日後になんと除名をくらってしまいました。高校二年の時です。それからは帰宅部エースとして遊びに集中しましたね(笑)

話が逸れますが、文化祭で安室奈美恵withスーパーモンキーズが体育館でライブをやってくれたことがあったのですが、元気の有り余っている渋高生全員が縦ノリで騒いだため、体育館の床が抜け、人間アリ地獄状態になり一時騒然としましたが怪我人はゼロで良かったね、という話。

そんなこんなで全然勉強しなかったため成績は悪く、落ちこぼれ状態で大学受験を迎えます。当然落ちます、はい。センター試験に失敗し、国立の歯学部は望みゼロ。私立の歯科大も一次、二次と受けまくったけれど落ちまくり。当然ですよね。人生でまともな挫折を初めて経験することになります。

その頃、偏差値40からの大学受験・慶応進学会!っていう予備校のテレビCMがたくさん流れていて、やや自暴自棄になりながら、そこに入ることになりました。今思えば、どうせ浪人するなら高校最後の時間を中途半端に勉強などせず、友達との思い出作りを精一杯頑張れば良かったなと思いますが、昔の私にはそんな度胸はありませんでした。

予備校は寮だったので、初めての一人暮らし。場所は埼玉の大宮。渋川からしたら超大都会です。・・・まさか・・・遊びますよね。飯塚少年は期待に漏れず遊びます。4月から1年浪人した訳ですが、1月のセンター試験が終わるまでほっとんど勉強せず、寮の仲間たちと遊んでばかりで親不孝な輩でしたね。現役での受験を失敗し、挫折を味わったにもかかわらず、どこか楽観視していたところがあり、本気で取り組むことをしなかった。のほほんと過ごし二回目のセンター試験に臨むも、

大失敗。ここでやっとスイッチが入ります。国立大の進路が絶たれた今、なんとか私大に受からねばまた浪人?本気で危機感を覚えた私は必死に勉強します。受験日は二月の上旬。受験日が被らない学校を三つ選び願書提出。この時は自分自身と向き合う時間も多く、いろいろ考えました。心を折られる本当の挫折をし、自惚れや、生ぬるい考え、世間知らず、そういった自分の性質を目を背けたくなるくらい知らされ、このままじゃいけないと強く思いました。受験科目は数学、物理、英語、そして小論文。それぞれこれだと思う参考書を一つだけ決め、それだけを繰り返しやる。一日15時間~18時間は勉強したでしょうか。見事受験した三つの大学はすべて合格。その中で一番名前の響きがいいなと思った東京歯科大学に行くことにしました。人間本気になれば何でも出来る!自信を取り戻しついに大学進学です。

歯学部生の頃

東京歯科大って言うから皆さん東京にあるものだと思いますよね。当時学生のキャンパスは千葉の稲毛っていう海のちかくの何も無いところでした。キムタクの実家が近くにあるとこ。私は稲毛駅近くのところに下宿させてもらいました。引っ越し準備をしていると大学から電話が掛かって来て、入学式で生徒代表として宣誓文を読み上げて欲しいという依頼でした。毎年入学試験の成績優秀者が担当するということを言っていましたが、私が思うに顔審査が最優秀だったんだろうと思っています。ん?

よし、それならいっちょやってやろうと思い、入学式に向けて準備を始めます。その当時、髪が後ろで縛れるくらい長かったので、誰もやったことが無い髪型にしようと思って、そうだ!アフロにしよう!と美容室に行ったのが入学式の前日。美容室の人に言われたのが「アフロは時間が掛かるから今日は無理だよ」でした。

わたし的には、新天地で今までの自分を変えて弾けたい思いが強かったため、入学式の次の日にアフロにしましたが。あの、会社が転勤になったタイミングで髪の薄い人がカツラ被るみたいな心境。そんなアフロは大学で超目立ちまくってしまい、不良にも目をつけられ、人気者にはなったのですが、嫌な思いもたくさんしました。

部活は、逆三角形の体だとモテるだろうという不純な考えで水泳部に入部しました。勧誘してくれた先輩がすごく優しかったっていうのもありました。(だからうちの医院メンバーに、有望な実習生がいたら優しく勧誘してあげてねと言っております笑)

私の大学時代は水泳部に始まり水泳部に終わると言っても過言ではないくらい、とにかく部活中心でした。部員が男女ともとても仲が良く、いつも一緒に過ごしていましたね。当院でインプラントを担当してくれている田口先生と奥澤先生も水泳部です。初代矯正担当医の浅川先生も水泳部です。

ちなみに今の永井先生はサッカー部でした。大学四年のときには私はキャプテンを任され全国歯学部の体育大会で優勝に導くことが出来ました。って言うとカッコイイけど、実際私は泳ぐのは一番遅く、もっぱら練習の後の飲み会が主戦場でしたが(笑)

学業のほうはというと、1年生と2年生は基礎系の授業だったため、全然勉強せず、13個ある単位のうち12個落とし追試の嵐で留年ギリギリでした。その時ストレスで人生初の顎関節症を発症し、口が開かないため、うどんを1本ずつすするのがやっとで苦労した思い出があります。3年生となると人体解剖の実習が始まりいよいよ本当に医学の道にすすんだ実感が湧き、勉学に励むようになりました。臨床系の授業は本当に面白かった。5年生になると登院と言って病院での臨床実習が始まります。私は同級生の誰よりも早く開業したいという明確な意志を持っていたため、必死に知識習得をしていました。成績は良かったと思います、たぶん。6年生の後半は国家試験を控えてその対策授業が始まり、放課後は各自自習だったのですが、自習中はいつも友達に教える役という感じでした。実は私は大学1年生の時から近隣の歯科医院で歯科助手のアルバイトをしていました。1から活字に学ぶ同級生より、実際に治療の現場を見ていたので理解力が違います。国家試験はこともなく通過し、卒後すぐ一般開業医で勤務させてもらうことになります。しかもなるべく忙しい医院を選びました。それが一番開業への近道だと思ったからです。なぜそれほどまで早く開業することにこだわっていたのか・・・。

開業への思い

医者や歯医者の家系では無く、ましてや医療系でもない家系の人間が歯科の世界に飛び込むということは思った以上にハードルが高いことでした。

入学金は1,000万円です。授業料は年にもよりますが、300万円~600万円。それに生活費が乗るわけです。かなりお金が掛かります。私が中学の時まで父親は渋川市役所の職員でした。今のままでは息子を歯医者にしてやれないと思った父は、50歳目前という年齢で、安定の公務員を辞めることを決意し、宅地建物取引士の資格取得を目指します。好きなテレビの水戸黄門だけ観る以外はずっと机に向かって勉強していた姿を思い出します。市役所を辞めて背水の陣で臨んだ試験は一発合格。同時に行政書士も取得し、不動産取り扱いの会社を立ち上げます。その名は日光土地。飯塚家に日の光をあてるかのように。

順調に見えた事業も、経済バブルが弾けた煽りもあり、なかなか不動産だけでは安定した収入が得られないため、焼肉屋を経営することにしたようです。こちらも最初はとても繁盛し、店長として頑張っていた母親も毎日忙しい日々を過ごしていました。ところが突然、狂牛病のニュースが・・・。ほどなく全国の焼肉屋からお客さんがいなくなり、半数以上が経営難状態。うちも例外ではありませんでした。そんな中、私を歯科医師にするために、一所懸命家計の財布をやりくりし、各方面へ資金集めに奔走し、なんとか首の皮一枚つなげた格好で今があります。この時は親戚の方々や父の友人に返しても返しきれない御恩があります。私がこうしていられるのも親戚をはじめとしたみなさんのおかげです、本当に感謝しています。弟も壊滅状態の焼肉屋で、ど素人ながら厨房に入り、飯塚家存続のために尽くしてくれました。20歳そこそこで他にやりたいことがあっただろうに、不自由な思いをさせてしまったなと思います。

大学の後半は、ホントにお金が無く、1日の食費が100円という時もありました。その頃タバコもやめました。タバコを買うくらいなら栄養摂りたいと思ったからです。情けない話なんですが、食費を浮かすため、学校の食堂で食べ残しを捨てる流しのコーナーがある場所の目の前の席を陣取り、顔見知りに声を掛け、捨てるなら俺がもらうって言って残り物を恵んでもらっていたこともあります。プライドなんか気にしていられませんでした。コンビニの深夜のバイトをしていたので、廃棄弁当を貰ってきて冷凍しておいてあとで食べたり、なんとか食い繋いでいました。この時の経験があるため、私はどんなに貧乏でも日本ならやっていける自信があります。

そんな状況でいたので、飯塚家に再び光を当てるには少しでも早く開業するしかないと思い、30歳までに開業するという目標を立て、そのためにはどうしたらいいかを考え、逆算して期限を設定し、行動に移すということをしました。その結果、29歳と4か月で開業することが出来たのです。

勤務医時代

当時、歯科には研修医制度が無かったため、卒後の進路は自由でした。本当は大学時代の仲間たちがいるので大学病院に勤め、まだ学生気分を延長したかった想いはありました。しかし、少しでも早い開業が目的なので、私には一般開業医以外の道は考えられなかった。国家試験が終わる前なら就職活動をしなければならず、三軒ほど見学に行かせてもらいました。その中で、一番忙しそうな東京の蒲田にある、島田歯科医院にお世話になりたいと思い、志願しました。

今は国家試験の合否は就職する時期より前に発表されると思いますが、昔は一旦就職して、二週間くらいしたら結果が出るという時代でした。なので、合格しなかったら、速攻辞めなければいけません。まあ、今ほど試験の合格率は悪く無かったけど、可哀想な人もいたみたいです。私は大丈夫でした。島田先生がオーナーのその名も「島田ビル」の二階に住まわしてもらい、最上階に住む島田院長とほぼほぼ一緒に暮らす生活が始まりました。とても良くしていただき、院長のご自宅で夕食を食べさせてくれたりと、本当にお世話になりました。ただ、職場に近すぎる所に住んでいたため、医院の前の犬のふんや、酔っぱらいの吐しゃ物、タバコの吸い殻、そういったものは片づけねばならないし、夕食後のゴミ捨てや、休日の業者対応等、なかなか大変なこともありました。近くに友人もいないので、今思えば当時の私は精神的に追い込まれていたと思います。そういった辛い環境が逆に私を奮い立たせ、とにかく少しでも技術、知識が向上するよう頑張りました。

島田歯科医院で得たものは大きかったと心から思います。一番は読書の習慣がついたこと。今まで漫画以外、本なんて読んだことが無かった私が、本を読むことが好きになった。これだけでもすごい価値があります。本からは経験から学ぶのではなく歴史から学ぶ、ということを教わりました。特に衝撃を受けた本を紹介します。『神田昌典著 成功者の告白』です。この本からは本質を見るということを学びました。他にも、コーチングや接遇応対、精神力強化、健康について等、いろいろなジャンルの本を貪るように読みました。人間力を学ぶ雑誌『致知』は島田先生に教えてもらい、今でも定期購読しています。私の人生の羅針盤です。また、私を直接指導してくれた、副院長の浜瀬先生には診療の基礎を教わりました。今や凄い人になっていて、補綴の分野のトップを走っています。

島田歯科医院時代では、私の尊敬する人の一人、「鍵山秀三郎」さんとの出会いもありました。車のタイヤ販売で有名なイエローハットの創業者です。掃除の神様とも呼ばれ、日本を美しくする会の代表でもあります。鍵山先生に学び、蒲田の街を毎朝掃き掃除することを始め、退職するまで続けました。鍵山語録で、私の好きな言葉があります。「大きな努力で小さな成果を」というものですが、普通誰もが小さな労力で大きな成果を得ようとするのではないでしょうか。その逆を言っているので、意味が分かんないですよね。これは、心の本質を捉えたすごい言葉なんです!解説をしますと、小さな努力で得た成果は、ラッキー!運が良かった!という気持ちと共に、次も、うまく行くかな・・・という不安もついてきます。まさにギャンブル。いつも不安に付きまとわれることは精神衛生上良くない。心が病気になってしまうこともある。逆に、大きな努力をして得た成果は自信になる。たとえその成果が小さくても、これだけやれば確実にこの成果が出せるという安心も得られる。精神的な安定をもたらし、心が病まない。この生き方にとても感動したので、この言葉は私の座右の銘の一つです。他にもたくさんこの時期に今の私の基礎を作った数々の出来事があります。

東京には二年半お世話になり、その後群馬に戻り、前橋の いちかわ歯科医院 に勤務させていただくことになりました。この医院は1日100人以上来院するとても人気の医院で、多くの症例を診させていただき、治療技術をたくさん学ばせていただきました。1日の診療終了後、日付が変わるくらいの遅い時間までカルテチェックをしながら毎日のように市川院長とお話させていただいたのですが、あの時間に歯科の知識はもとより院長の考え方というものをたくさん教えていただきました。ものすごい貴重な時間でした。この場を借りて感謝申し上げます。ここには一年間お世話になったのですが、勤務しながら開業準備をしていたので、言葉通り、寝る間を惜しんでやっていました。

そして、開業へ

手持ち資金の無い状態でどうやって開業するか、それは金融機関から借り入れるしかありません。寝る間を惜しんで取り組んだ事業計画書、これを持って、まずは金利の安いメガバンク・都市銀行の門を叩きます。相手にされない。次に国民政策金融国庫。条件が合わずダメ。では次、地方銀行、地元の銀行、ここは門前払い。地元の銀行に至っては、後で連絡くれると言っておきながら、全く連絡なし。次は信用金庫、審査をしてもらえたけど、結局担保不足でダメ。背水の陣で臨んだ信用組合。ここに親戚がおり、そのおかげで何とか融資していただけることに。

悔しい思いをたくさんしましたが、目的がハッキリしていたので、その達成のためならどんなことも受け入れるしかありませんでした。むしろ、今の自分が社会的にどう見られているのかを知ることが出来たいい経験でした。この時に、うまく行かない時に周りや環境のせいにせず、自分の努力不足や能力の低さに原因を求める思考が身に付いたので感謝すべき体験だと思います。

お金を借りることが出来たあとは、土地を購入、医院建設、設備購入、スタッフ募集、次から次にやるべきことが続きます。土地は遠い親戚が所有していたものを歯科医院を作るならと買わせていただきました。建物は父の友人の大工さんにお願いし、とにかく無駄なお金がかからないように建ててもらいました。設備は一部は購入しましたがほとんどリースにしました。ここでもまた簡単にはリースが組めなかったのですが、歯科材料商の担当者のご尽力でなんとかなりました。スタッフ募集は大学時代からの友人がいてくれたおかげでスムーズに行きました。開業まで走り抜けてきました。この時期に決断力が身に付いたと思います。建物の外壁や内装・レイアウト、開き扉なのか引き戸なのか、コンセントの数、電気スイッチの位置、診察台のメーカー、治療器具の種類、いろんなことをどんどん決めていかなければ先に進まない、そんな状況に身を置くと嫌でも決断力がつきます。やってみないと分からないことが多いので、やる前にあれこれ考えて行動できずにいるのは損するという価値観になりました。

関係機関への各種届出や歯科医師会入会、消防団への入団など、開業前後には様々なことを経験させてもらい、税務や労務、世の中の常識というものを勉強し、まだまだ未熟者でしたが、開業でき、今に至ります。

思えば、本当にたくさんの人たちに支えられ今があるんだと、この文章を書きながら実感しています。今まで与えていただいたものを、これからはたくさんの人に与えていきたい。そう思っています。